
衝撃レポート!作詞家・佑村河内攻氏の背後にはゴーストライターがいた!
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2014年2月、うちの大学に衝撃が走った。楽団に数々の歌詞を提供してきた佑村河内攻(うむらごうち せめる)氏が作った歌詞のほとんどが、ゴーストライターによって作られたものであったことが暴露されたのである。
「私が 作りました」
記者会見上で、自らを“ゴーストライター”と名乗る古垣陸氏(ふるがき りく=うちの大学非常勤講師)は こう淡々と話した。
「7年間で約10曲、歌詞だけにチョコレート菓子アポロチョコ700粒で引き受けました」 「彼(佑村河内氏)は漢字が書けない、文字による表現力も初歩程度」 「『きみとうちのそら』は、元々『黄身と白身の皿』というタイトルでした」 「作曲者のH島さんをはじめ、楽団ならびに楽曲を聴いていただいたみなさまにお詫びしたい」
古垣氏の証言により、次々と衝撃の事実が明らかになった。 古垣氏と佑村河内氏の出会いは約7年前、楽団うちの大学がオリジナル楽曲の制作を始めた頃であった。佑村河内氏が古垣氏へ、「楽団が新しい曲を必要としている。作詞をしてくれないか」と持ちかけられたのである。最初は面白半分の手伝い程度の感覚で歌詞を書き始めた古垣氏であるが、たとえ他人名義であっても自分の作詞した楽曲が楽団で演奏されることに喜びとやりがいを感じるようになり、次第に佑村河内氏の思うがままに操られてしまうことになる。 佑村河内氏が手がけた楽団うちの大学の楽曲の大半は、音楽監督のH島氏が作曲したものに歌詞をつけるスタイルで創作されてきた。その制作過程に古垣氏が関わっていたことは、H島氏すら知らない古垣氏本人と佑村河内氏の暗黙の作詞作業であった。 本誌は古垣氏の証言を基に、佑村河内氏の代表的なものとされる作詞楽曲の徹底検証を行った。
●検証� �2006年9月制作「エガオフルマチ」 まず、その決定的証拠がある。2009年某日のある演奏活動での演奏プログラムに組み込まれた「エガオフルマチ」、この舞台の目玉としてこの楽曲を“作詞した”佑村河内氏自らが歌うことになった。そのリハーサルで事件が起こる。その歌い出し一番に佑村河内氏は、 「♪古町(コマチ)へ出かけよう〜」 と歌い始めたのである。 新潟市古町(ふるまち)をテーマに制作された楽曲でありながら(当然、自ら“作詞をして”おきながら)、こともあろうに「古町(フルマチ)」を「古町(コマチ)」と読んでしまったのである。これについて古垣氏はこう推測した。 「完全にぼろが出ましたね、勉強不足だったのでしょう。彼(佑村河内氏)は学生時代に愛媛県松山市で暮らしていましたから。歌詞中に『古町』とあったから、反射的に(松山市内の)伊予鉄道の駅名にもある『古町(コマチ)』と読んでしまったのでしょう。『(内野)三番町で会おう』と言われたら、『(松山)中央郵便局の辺りね』と言ってしまうくらいですから」 そのリハーサルでは何とかはぐらかして乗り切った佑村河内氏ではあったが、その目と声は明らかに動揺しており、また楽団員からは疑問と不審の視線が注がれた。
●検証�◆�2007年8月制作「きみとうちのそら」 楽曲「きみとうちのそら」は、2007年8月湯沢町岩原で行われた作曲合宿で制作された。この歌詞はその夜、佑村河内氏が楽団員が集う音楽ホールから隔離された一室にこもって作詞に没頭して完成させたとされているが、これについて古垣氏はこう語った。 「まぁ、無理ですよ。彼は熱狂的な名古屋グランパス(当時=名古屋グランパスエイト)のサポーターですからね。あれは土曜日の夜、Jリーグの試合があるでしょ。当夜は(グランパスは)大敗で連敗中での大量得点の完勝試合でしたからね、ネットテレビで見ていたんでしょう、そんな状況で彼が(グランパスを忘れて)ひとつのことに没頭するなんてことはできるはずが無い。(中略) 彼はPHS愛用者で合宿地は山奥、電波状態がとても悪い。通話では(作詞作業が)進展しないので、歌詞については何度もメールでやり取りをしました。その日はグランパスが5対0で勝ったとか何とかで『勝手連的にグランパスの曲もつくろうよ』との一文からも、作詞についてはどこ吹く風の『上の空』状態で とても興奮している様子でした。そういう意味では、『きみとうわのそら』だったわけですが」 また、以前ある民放で佑村河内氏を特集した番組で、佑村河内氏は「きみとうちのそら」についてこう話していた。 (「歌詞中に出てくる『ボク』こと青年は、自身の体験談に基づくものなのか」という質問に対して) 「そうですね。通学で毎日内野駅を使っていましたし、当時付き合っていた彼女とよく手をつないで海へ行ったのは、今でもとてもいい想い出です」 しかし、後日 高校時代の佑村河内氏は自転車通学の“チャリ通”であったことが判明し、また同氏が“彼女”とは無縁の“モテナイくん”であったことも明らかになっている。これを受けて佑村河内氏は「実はあれ(内野駅)は、毎日(駅前をチャリで)通過していたんです」、「『海へ行った』の歌詞にあるのは、我が家の飼い犬のことなんです」と苦しい言い訳をしたが、佑村河内家で飼っていたのは犬ではなく猫であったことはよく知られている。
●検証�� 2009年9月制作「不意討ちの内野惜別」 佑村河内氏が“作詞した”作品の中で、唯一旋律を考案し“作曲した”楽曲「不意討ちの内野惜別」。これについて、古垣氏はこう話す。 「2009年に佑村河内さんから『内野町をテーマにした演歌を作って欲しい』との打診がありました。実に困りました、何と言っても彼は音痴なんですよ。秋の内野まつりカラオケ大会では、8年も連続出場していながらグランプリとは全く縁の無い“無冠の常連”として名を馳せているくらいの。楽譜も苦手で、記号『D.C』を「直流?」「ドタ・キャン?」「ワシントン?」とか言ったり、楽譜中の『4分休符』で演奏中に4分間休んでいたほどの素人ですからね。それにしても、これをしっかりとした楽曲に仕上げた編曲者のH島さんには脱帽でした」 同曲中の歌詞「己を殺して生きれと云うのか」が、古垣氏の心の叫びのように聞こえてしまうのは決して偶然では無い。
●検証�ぁ�2011年6月制作「うちの大学校歌」 古垣氏の暴露以前から漢字が苦手と言われてきた佑村河内氏。それを自らで証明したのが「うちの大学校歌」である。 (古垣氏)「あれはS馬先生が保管していた原詞がありましたからね、それを補完する程度の比較的簡単な作詞作業でした。もちろん佑村河内さんは実質的には何も関わっていませんよ。2012年演奏会での佑村河内さんの校歌斉唱を見てもわかると思いますが、1番と2番と3番の歌詞がゴチャゴチャになって、まともに歌えたことが一度も無い。それから『角田弥彦』を『すみだやひこ』、『百折不撓』を『ももおりふやき』、『飛沫』を『とびまつ』、挙句の果てに『内野』を『ないや』などと歌ってしまうので、もうだめでしょ、内野を歌った曲で『ないや』は、さすがに。なので、全文をひらがなにしたら今度は『(歓びを奏で 無窮の空は藍より青く)よろこびをかなで むきゅうのそらはあいよりあおく』を『よろこびおっかな電球の空 ハワイより青く』とか読んでしまって…あきれるにもほどがありましたね」 古垣氏はこうも指摘した。 「いわゆる“佑村河内作品”のタイトル(曲名)のほとんどが、ひらがなでしょ。つまり、そういうことなんです」
このように、佑村河内氏作詞の“代表曲”である楽曲が、古垣氏の手によって作詞されたことが明らかになった。それどころか、佑村河内氏は自身が“作詞した曲”についても満足に知らないことも暴かれた。 佑村河内氏はいままで、だれにも作詞作業を見せることは無かった。字が汚いだけでなく、語彙が極端に少ないことがその理由ではあるが、それが故に世間が彼の「孤高の作詞家」像を作り上げた。事実として、佑村河内氏が行ったことと言えば、古垣氏から送られてきた「歌詞メール」を音楽監督・H島氏へ転送していたことだけである。また、取材で曲詞についてコメントを求められた際には、なるべくその場の口頭での回答を避け、後日メールによる回答という形が多かった。これについて古垣氏は「佑村河内さんが(質問内容を)私に転送し、私の回答を(佑村河内氏が取材者に)転送していたからです」と説明する。それを裏付けるように、佑村河内氏発信のメール件名には、必ずメールの転送を示す「Fw:」が入っていたという(この指摘に対して佑村河内氏は、「私の名前は『攻』だから、Fw(フォワード)を入れてるんだ」と反論している)。 本誌は今回の騒動の張本人である佑村河内氏に対して何度も取材を申し込んでいるが、佑村河内氏は「いま、『合唱曲第一番町“UCHINO -入口-”』を制作中のため、取材にはお答えできない」としている。
最後に、なぜ自らがゴーストライターであることを公表したのかを古垣氏に尋ねたところ、 「昨年末突然、佑村河内氏から『作詞報酬をアポロチョコからマーブルチョコにする』と一方的に言われ、当初の約束を守ってもらえなかったからです。私はあの(アポロチョコレートの)イチゴの部分が大好きなのです」 と、憤った様子で話した。 あっ! ポロっと手からこぼして崩れたこの甘い関係、佑村河内氏にとってその代償はあまりにも大きかったようだ。 |