(このページは、楽団うちの大学さんのサイトの一部をお借りして掲載しています)

青空になると、いいよね! 15、一期、イチゴ…

 

 2000年8月21日、古町パレードの表彰状

 立派な額縁に入っていますね!

 さっくぅから古町パレードの表彰状の画像が届きました。「8月21日になっているけど、空で集まる日は19日でいいの?」という疑問から撮ってくれたものでした。(みんなで海に行ったのは古町パレード当日の前々日だから、逆に「19日」で確定した格好です)

 さて、よく見てください。古町パレードに審査は無いのになぜ「金賞」!?

 「金賞」の謎はさておいて。西高現役当時、アンコンを除いては金賞には無縁の「シルバーコレクター」だった私たち。3年間の成績を、憶えてる範囲でちょっと並べてみました。

 

 97年 7月 新潟県吹奏楽コンクール下越地区大会/高Aの部 銀賞

 98年 7月 新潟県吹奏楽コンクール下越地区大会/高Aの部 銀賞

     8月 新潟県マーチングフェスティバル/パレードコンテストの部 銀賞

        新潟県マーチングフェスティバル/フェスティバルの部 優秀賞

 99年 7月 新潟県吹奏楽コンクール下越地区大会/高Aの部 銀賞

     8月 新潟県マーチングフェスティバル/パレードコンテストの部 銀賞・県代表(特別枠)

    10月 西関東マーチングフェスティバル/パレードコンテストの部 銅賞

 

 通算成績/銀賞6回、銅賞1回 (マーチング自由演技の部「優秀賞」も銀賞相当として含むよ)

 

 この「金賞」の表彰状、現役当時はコンクールで、マーチングでみんなどれだけ欲しかったことか。そんなこともあってか、古町パレード後にさっくぅが金色の折り紙を丸く切り抜いて、卒業後の「功績」(?)に花を添えてくれました。後日、さっくぅの家に集まって、掲げられたこの表彰状を見上げながら飲み明かしたよね!みんなやっぱり、ゴールド金賞が欲しかったんよなぁ。

 そんなことを思い出していたら、金賞そして代表に挑んだ数々の大会。いまも記憶に残る公先生の「大会の言葉」をまとめてみました。(もう大半を忘れてしまってるかも、他にもあったら教えてね)

 

 97年7月

 “みんな良い子なんだから歩こう”

 - - - 課題曲 マーチ「夢と勇気、憧れ、希望」でのメイン旋律部分の歌い方について YouTube(←0:13あたりから)

 

 “厳しい闘いになるだろう”

 - - - この夏から下越大会高Aの県大会への進出枠が1校削られ、まさに「高A戦国時代」に入ったことを宣告した公先生。

 

  98年7月

 “大会は戦だから。Aの部じゃなければ戦じゃない”

 - - - フル50人を揃える他校に比べて西高は40人前後の小規模編成ながらも、“戦場”を「Aの部」にこだわり、全員全力で挑む先生の情熱。

 

 “垣根の垣根の垣根の…”

 - - - 自由曲 カルミナ・ブラーナ、�困離曠襯麌�分 YouTube(←29:22あたりから)

 

 “やっと勝負する土俵に上がったんじゃないかな、あとは伸るか反るか”

 - - - 地区大会の直前のtuttiで。「最初から負けるつもりでは挑まない」とも。人事を尽くして天命を待つ、部員を鼓舞する一言。

 

  98年8月(番外編おまけ)

 “おまえ、カニ食べるの上手いな”

 - - - 鳥取にて。そのまま、カニを食べるのが上手だった部員に対して。

 

 “全員、後ろの反射板を隠そう”

 - - - コンテスト規定のハイステップ32+ローステップ32、審査員席から少しでも揃って見えるように、ズボン脚後方の反射板を隠すという妙案を出されました。

 

 “大変なのはわかるけど…フェスティバルも、出よう”

 - - - 吹連役員の大人の事情(フェスティバルの部の西関東枠を拡げる目的)で、体育祭のフォーメーションで急きょ自由演技の部にも出ることに。マ、マジすか…!?

 

  99年7月

 “削るの、嫌なの”

 - - - 自由曲の幻想交響曲「5.怒りの日」で、カットする部分を悩みに悩んでいた公先生が、この一言。

 

 “変わった…こんなにも変わるものなのか。いけるぞっ!”

 “負けられないよな”

 - - - やまびこ合宿。講師・新通先生の指揮・指導に圧倒されながら最終日に急成長。2階の小部屋で、あまりもの急成長に感動・動揺して指揮棒(菜箸)を持ちながら座り込んだ公先生の言葉。

 

 “結果は、結果だから”

 - - - 3年連続敗退の地区大会後、テルサの玄関にて。先生も部員もトラックの運ちゃんも、みんな悔しかった。

 

  99年8月

 “もう、パレード(コンテスト)一本だ”

 - - - 前年に続く役員(大人)の事情から自由演技の部にもエントリーするものの、直前で出場を辞退して規定演技の部に専念することを決めた公先生決断の瞬間。

 

 “今日最大のライバルが到着だぞ”

 - - - マーチング西関東大会未出場校のうち1校だけ審査結果(順位)に係わらず県代表になれる特別ルール、その「特別枠」を競う(?)J東中学校を乗せたバスに対して。中学校!?

 

 “最後の最後に、つなげられたなと思う”

 - - - 「特別枠」ながらも西関東大会に出場決定。高1の夏から一度も上級大会へ進めなかった私たちの世代を不憫にお思いだったのか、大会後に公先生は安堵の表情で仰いました。

  

 “(マーチングの練習は)西高の部活で最も過酷だったと断言できます”

 - - - 楽団うちの大学「創立6周年記念誌」より。公先生のおかげで丈夫な体を手に入れ、たくさんのことを学びました。ありがとうございました。

 

  コンクール高Aは 私たちの最後の夏から2年後に下越地区大会が廃止され、県大会から始まるようになったそうです。マーチングも「特別枠」は廃止され、西高は翌年から、そして共にしのぎを削った文理さんや第一さんも次々にマーチングから撤退されたとのことです。ある意味では、私たちは「高A」「マーコン」「マーフェス」の三大大会を経験できた いちばん熱い時代に恵まれた世代だったのかも知れませんね。

 公先生は、西高当時マーチングを始めたことは後々 2000年の古町パレード出場、翌年 後身の楽団うちの大学結成につながり、悪いことではなかったのかもしれないと述懐されています。そして「いつかはコンクールに」と、いつも仰っていました。公先生の大会へかける意気込みというものは、相当なものであったことがいまでも伝わります。あの平和主義者の公先生が、「戦」とか「闘い」という言葉を口にするのですから。

 これらのお言葉は、これからも決して色褪せることの無い、いつか私たちが目指した金色の紙以上の「金言」ですね。

 立派な額縁に入っていますね!

 そういうことで、この平成12年8月21日の古町パレード表彰状は、それまでの私たち、その後15年間の私たち、そしてこれからの私たちみんなの「金賞」になったようです。

 いつまでも、私たち同期に輝く「金賞の○年後」でありますように。

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